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空白の叫び

偶然が重なってドキリとした。ちょうど少年犯罪についての小説を読んでいるときに、点子さんから、先日読んだ「心にナイフをしのばせて」の記事ににコメントをいただいた。点子さんもこの「心に~」の本をお読みになったという。(記事はこちらです)ときどき、こういう嬉しい偶然が起こる。本好きの人種というものは呼び合うものなのかもしれない。

空白の叫び 上 空白の叫び 上

著者:貫井 徳郎
販売元:小学館
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14歳の少年、三人がこの物語の主人公である。始まりから、衝撃的な表現が連なる。一人目の少年、久藤美也(よしや)は、内面に得体の知れない”瘴気”を抱えている。

「美也くん」という呼びかけ。母にそう呼びかけられるたび久藤は、頭蓋骨の内部を毛虫が這うようなおぞましさを覚える。おれはもう、てめえの乳首に食いついていた赤ん坊じゃねえ。

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父が薄っぺらな人間だという事実に、久藤は早くも小学生の頃に気づいていた。自分が無学だったばかりに苦労したという怨念から、息子には馬鹿のひとつ憶えの如く「勉強しろ」と唱え続けた父。勉強こそが、目眩く希望に満ちた未来に繋がると盲信している認識の浅さ。

久藤の気持ちは登校中にいる老犬を毎朝蹴飛ばしても、小学校のときにいじめられた奴をいびり返しても晴れることはない。自分でも扱いこなすことのできない、痛くて、むず痒い瘴気は、少年の心の中でどんどんふくらんでいく。

二人目の少年、葛城拓馬は、金持ちの家の息子だ。いまどき使用人のいる家、四人目の母親。早くから英才教育を受けているので、成績も良い。運動神経にも恵まれている。更に生まれついての美しい顔立ち。だからこそ、葛城は他人に決して心を開くことはない。

頭がよく、運動神経が抜群で、容姿は申し分なく、さらに経済的に恵まれている人など、性格が歪んでいるに決まっている。そういう暗黙の決めつけが確かにある。

葛城は、人の嫉妬やひがみの醜さ、危険さを14歳にして知ってしまっている。できるだけ他人と距離を置き、何を考えているか分からない奴と思われること、それしか生き残る道はないと考えている。しかし使用人の家の息子、英之だけは、そんな葛城の心に土足でずかずかと入り込んでくる。

「おっ、うまいなあ。やっぱり金持ちのぼんぼんは違うよな。オレみたいな庶民とは、生まれつき血が違うんだよな」

いつもの英之の口癖だった。自分には難しいことがあると、英之はすぐ生まれのせいにする。まるで己が葛城の立場に生まれれば、すべては逆転していたかのようなことを言う。

三人目の神原尚彦は、叔母と祖母と暮らしている。母親は息子を置いて、男から男を渡り歩いている。一見普通の男の子である神原。しかし、いとも簡単に他人を裁き、何でも周りのせいにして悪を心に育てているようだ。

三人の少年が、殺人の罪を犯すまでの心情が克明なまでに記録される。私は、自分が14歳だったときのことを思い返してみる。思い出せない。けれど、久籐のように、原因は分からないが、いつ爆発するか分からない猛毒を胸に抱えていた気持ち、それに気づいたときの自己嫌悪感に、覚えがある。葛城のように、押しつけがましい卑屈な言葉と、いわれのない嫉妬を吐き出す、弱くてずるい人間を許せずに、軽蔑していた自分がいたような気がする。神原のように、良いか悪いか、右か左か、その「間」を見ることができずに、簡単に突発的に判断していたころがあったような気がした。

物語は終わらない。

少年院に入れられる三人。過酷で、正義も何もない、地獄のような世界に少年たちは放り込まれる。

信じられない、信じられない、信じられない。こんな世界が世の中にあるとは、とても信じられなかった。これが少年院の生活か。これが罪の代償なのか。

やがて、彼らは少年法に守られて、出所する。けれど外の世界もまた、内の地獄と同じくらいに過酷であることをすぐに悟る。

しかし世間は、久籐の罪を決して許さない。あらゆる手段を用いて、不断に罪の重さを自覚させる。その徹底ぶりは、少年法の不備をみなで補わなければならないとでも考えているようだ。おそらく世間は、犯罪少年の更生など望んでいないのだろう。

いやがらせ、怯えを含んだ白い目、怒り、憎しみの標的。少年たちは、やがて出所したもの同士で集まるようになる。彼らは、先の見えない行き止まりまで追い詰められてゆく。

被害者の家族たちは言う。

「…… 私は誓おう。私は生きている限り、君への憎しみを捨てない。この先二十年でも三十年でも生きて、君のことを呪い続ける。そして、君が社会に出てこないよう、あらゆる努力を払う。君は死ぬまで、塀の内側で生き続ければいいのだ」

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「私はぼっちゃんを殺しません。私に殺して欲しいなんて、ちょっと虫がよすぎやしませんか」

物語は終わるが、きっと終わらないのだろう。彼らの人生は続いてゆく。人を殺すことがどういうことなのか、最後に少年たちは自分たちなりの結論を出す。

作家の貫井徳郎さんは、少年たちの心の動きを細やかに書き出しているだけでなく、少年院の実態、少年が出所したあとの社会の状況なども克明に読者に示している。丹念に取材をされたのだろう。

他作品『慟哭』のラストは、あっと声を上げてしまうほどの衝撃だったが、今回の作品にも大きなひねりが用意されている。謎解きの要素もあって、長い作品だったが一気に読んでしまった。

被害者の立場、加害者の立場、第三者の立場、私はこれからも本を読み、考え続けていきたいと思った。結論はそう簡単に出ないとは思うけれど。

小説は、作家の手による空想の物語である。けれどその波間に真実が、つつつ、と顔を出す。そのうち、目の前に広がるこの海全部が真実なのかもしれない、と思い始める。

小説には、真実というものに最も近づく力があると思う。

慟哭 (創元推理文庫)

それから最後に、点子さんのブログを通して知った、コニコさんも、少年犯罪をテーマにした記事をお書きになっています。紹介されている本もとっても興味深くて、本好きの人種が呼び合う偶然に二度嬉しくなりました!(記事はこちらから

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月と六ペンス

初めてカズオ・イシグロの「日の名残り」を読んだときの喜びを覚えている。外国の小説だということを忘れた。翻訳された小説だということを忘れた。訳者の名前を見ると<土屋政雄>とあった。次にマイケル・オンダーチェの「イギリス人の患者」のページを開いた。原書を挫折したこともあって、苦手意識がついた作品だった。書き出しから数ページで、大げさでなく打ちのめされた。訳者はやっぱり<土屋政雄>とあった。

そういうわけで、今回手に取ったモームの「月と六ペンス」は、大変失礼なのですが、モームというより土屋政雄さんの名前で手にとった。だいたい、私はモームがどういう人なのかもよく分かっていない。けれど面白かったのですよ、これが。

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫 Aモ 1-1) Book 月と六ペンス (光文社古典新訳文庫 Aモ 1-1)

著者:モーム
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主人公の<チャールズ・ストリックランド>は株式仲買人。上品な妻と子供たちと共に穏やかに、平和に、暮らしていた。ところがある日突然、彼は家を出て行ってしまう。<チャールズ・ストリックランド>の妻は、知り合いで作家の<私>に、夫を連れ戻してほしいと頼む。語り手の<私>は、<チャールズ・ストリックランド>を説得しにパリへ向かう。しかし、退屈な男だと思われていた<チャールズ・ストリックランド>は、<私>の予想をくつがえす強烈で獰猛でエネルギーのかたまりのような男だった。

「では、いったいなぜ奥様を捨てたんです」

「絵を描きたくてな」

私はただ驚き、呆然とした。ストリックランドの顔をずいぶん長い間じっと見つめていたと思う。

画家ポール・ゴーギャンをモデルにしたと言われる、狂信的ともいえる一途さで絵を描き続けた男の物語がはじまる。

<チャールズ・ストリックランド>は、動物の本能のように絵を描く。他人にどう思われようと構わない。絵は人に見せるために描いているのではない。

「子供だな。個の意見すら気にならんのに、群れの意見を気にしてどうする」

そんなストリックランドとその周囲の人々を、<私>は容赦なく、ばっさばっさと斬りながら、物語を進めていく。ストリックランドよりも冷徹な人間がそこにいる。

五年後、<チャールズ・ストリックランド>に捨てられた妻は、事業を起こしまずまずの成功を治める。そして、ためらいがちにストリックランドに多少の援助をしたいと<私>に申し出る。そこで<私>はこう思う。

だが、親切心からの申し出でないことはわかっていた。苦難が高貴な性格を作るというのは真実ではない。幸福が心の気高さを生むことはときとしてある。だが、苦難は、だいたいの場合、人を狭量にし、意地悪くする。

更に<私>は、ストリックランドの絵を見て興奮はしたが、深く困惑してしまう。<私>はストリックランドに、絵画があなたにとって最適な手段なのだろうか、と問う。真っ向から刀を抜いてくる。

私たちは、言葉の分からない外国に来た旅行者だ。美しいこと、意義深いこと、言いたいことは山ほどあるのに、実際に言えるのは会話教本の例文に限定される。頭がアイデアで沸き返っていても、口は「これはペンです」としか言えない。

という風に刀を振り上げ相手を動けなくさせた後、

結局、印象として最後に残ったのは、とてつもない努力、の一言に尽きる。

と、ばっさり、ゆく。

<感動>でもなく、<才能>でもなく、<努力>。

酷である。そう思うのは私だけだろうか。

しかし、冷徹なのは<私>だけではない。物語は、ストリックランドがやがてタヒチに向かい、そこで絵を描きまくり、極貧のなかで病に蝕まれ、亡くなるまでを追うが、ほんとうの物語の最後はまだやって来ない。舞台は、捨てられたストリックランド夫人のために用意されている。死後名声を得た天才画家<チャールズ・ストリックランド>の妻として、堂々と大役をこなす。夫人の家には、ストリックランドの絵が飾られている。タヒチの奥地で彼が一緒に生活をしていた、女と子供と老婆の家族の絵だ。何不自由ない生活をしている夫人のしたたかさ。

「ときにはわずらわしくもなりますけれど、でもね、チャーリーについて知るかぎりのことを話して差し上げるのが、天才画家の妻だったわたしの義務だと思いますの」

誰よりも冷徹なのは、もちろんモームなのだ。

<チャールズ・ストリックランド>は<私>に、絵をあきらめて奥さんのもとに戻るよう説得されたとき、こう答えている。

「描かねばならんと言ったろうが。自分でもどうしようもないんだ。水に落ちたら、泳ぎがうまかろうがまずかろうが関係ない。とにかく這い上がらねば溺れる」

何と残酷なのだろう。何と残酷で、うらやましい人生なのだろう。

音楽家は、作曲家がこめた魂を響かせるために五線譜の上のおたまじゃくしを音に変えて世界をつくりだす。翻訳家と呼ばれる方たちにもそんな力があるように思う。最近読んだなかでは、ミステリーのフロスト警部シリーズと、この月と六ペンスに、世界が目の前に立ち上がってくるのを感じた。

でも、フロスト警部と<チャールズ・ストリックランド>ならにやにやしてこう言うでしょうね。

  「もっと読め、馬鹿者」

apple今回記事で紹介した本はこちらですapple

日の名残り (ハヤカワepi文庫) 日の名残り (ハヤカワepi文庫)

イギリス人の患者(新潮文庫)

フロスト気質 上 (創元推理文庫 M ウ) フロスト気質 上 (創元推理文庫 M ウ)

クリスマスのフロスト (創元推理文庫) クリスマスのフロスト (創元推理文庫)   

            

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北村薫の創作表現講義

北村薫の創作表現講義―あなたを読む、わたしを書く (新潮選書) Book 北村薫の創作表現講義―あなたを読む、わたしを書く (新潮選書)

著者:北村 薫
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

北村薫さんの書いた『円紫師匠と私』シリーズは私の愛読書である。<愛>がつくほど、このシリーズの五冊を私は愛しているのである。特に『六の宮の姫君』は大好きな一冊である。読んだあと、ああ、私はこんな本をずっと読みたかったんだ、待っていたんだ、と思った。読む前には『六の宮の姫君』のような本を読みたかったなんて、自分では分からなかった。気がつかなかった。

私の心の中に深くて底の見えない池があって、よく分からない正体不明の生き物が住んでいる。しかしある日『六の宮の姫君』がその得体の知れない生き物を釣り上げてくれた。どんな形をしていて、どんな食べ物を好み、どんな暮らしをしているのか、ようやく私はこの本を通して自分の心に住む生き物の正体を知ったのである。

数は多くないけれど、こうやって水の底に手を突っ込み、ぬるぬるした深海の<私>を、ぐわっとつかみ出し、地上の光のもとに示してくれる本というのがある。そういう本は、感動したとか、衝撃的だとか、そんなものを超えて私の<愛>読書となっていく。

これは北村薫さんが、大学の文学部で講義をした内容を紹介したものである。本のタイトル通り、創作表現を学ぶための講義を北村さんが行っている。

北村さんはまず、さまざまな作家の文章の書き出しを紹介して、こう言う。

《表現》が即ち《個性》だっていうことが見えてくる。そういうことを《読む》のが面白い。《読む》こともまた、重要な表現です。

え? と私は思わず読み直してしまう。書くことは表現であると思う。しかし、読むことが表現であるなんて、考えたこともなかったからだ。

定評を追いかけたり、弱々しくごく常識的な判断だけをしているなら、それは自分をかけて読んでいることにはならない。だから、きちんと読むには大変な力がいります。読むことは、書くことと同様、大きな創作なんですね。

北村さんの語り口は優しい。けれど私はページをめくるたびに、座っているソファからめりめりと自分が沈んでいくのを感じた。北村さんは、演劇、映画、写真、さまざまな話題をからめながら《表現》するとはどういうことか生徒たちに伝えてゆく。ときには、才能豊かな歌人や編集者を招き、話をしてもらう。本が進めば進むほど、私はずぶずぶと落ち込んでゆく。北村さんの話の楽しさや温かさのなかに、静かで厳しいメッセージを感じるのだ。

品物がないとする。ない物を売ることは出来ません。置かれていないケーキを、《いただきます》と食べることは出来ない。

町だって、ただ歩いていたら、色々なものが目に入らない。通り過ぎてしまう。《見ようと思う心》がないと、ものは見えない。

小説の文体や視点の話、個性の出ている表現の話、目の前の事実と作品における真実の話、北村さんの講義はどんどん広がり、深まっていく。

そのうち、どの話を読んでも自分が《生きる》ことの意味を問われているような心もちになってきた。《表現》することは、自分を世界に示すことだ。しかし、その自分が空っぽだったら…。講義のなかで紹介される、さまざまな人たちのあまりの才能に、私はもう、元居た場所に浮かび上がれない気持ちになる。けれど、北村さんは講義の終わりに忘れずに生徒を救いあげる。

でも、取れないボールを、自分には縁のないものと考えて、全く追いかけないのも、 ――実は勿体ないことである場合も多いのです。ことに守備の経験の少ないうちには。

分からないものを、ただもう全否定するのではなく、敬意をもって見つめてみると、そこから何かが見えてくるのかも知れません。

北村さんは、私たちの心をゆさゆさと動かしながら、最後をこう締めくくっている。

今、ここで、表現についてお話ししていますが、その場合我々は、どうしても《書く》ことの方に偏って考えがちです。

読むというのは、自分がどういうところに立っているか―― 自分の位置を示す行為に外なりません。

我々は書くことによって《わたし》を示します。同時に《あなた》を読むことによってもまた、《わたし》を表現するのです。

まだ、間に合うだろうか。いや、どんなときも、それに気がついたときが、自分にとってのベストタイミングなのだ。間に合わせてみせる。何かを学んだというより、何かを注入されたような熱い気持ちで、私は本を閉じた。

*私が好きな北村薫さんの本はこちらです。

円紫師匠と<私>シリーズ

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書) 六の宮の姫君 (創元推理文庫)(他に、「夜の蝉」「秋の花」「朝霧」があります)

詩歌の待ち伏せ〈1〉 (文春文庫)

   

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